漫画・本レビュー

村上春樹短編集 一人称単数

謝肉祭

村上春樹さんの短編集を読んだのですが、私はアダルトな表現や女性の外見についてオーバーな(オーバーでなかったとしても)表現がどうしても苦手で、特に『やろうと思えばやれた』みたいな実際にはそういう表現ではないのかもしれないけれどもそうとも取れるような表現が心底嫌・・・・・・村上春樹さんの作品を語る上で凄くナンセンスなことを言っている気もしますが分かってくれる人もいるはず(苦笑い)

それらの表現が何かを助長してるとは思っていないし、差別的だと思うこともないのですがどこかプリミティブというか前時代的というかそのような認識から壁をどうしても私が作ってしまうのです。その壁は村上春樹さんのように来ると分かっていれば壁を乗り越える準備ができるのですが、いきなりこの壁が現れた時に私は物語の結末などもうどうでもよくなって売ってしまおうかと思うところなのです。それくらい飽きたというか低俗に見えてしまうというか心が現実にぶん殴られるような感覚に陥るというか、単純なストレスではあるのですがなんかこう1日が台無しになる気になってしまうんですよね。

それだけ私が女性のある一部の表現について嫌悪感を抱いているということが伝わったことでしょうが、それは村上春樹さんだから良いとか読みやすいということは全然なくて心の準備ができていても壁は壁なんですよね。その壁を乗り越えることはやっぱり結構ストレスで、この話を語る上で必要性がある表現だと感じたり、それでも本当に必要な表現なのか?と思ってしまうほど嫌悪感を抱いたりするので読んでいて辛いです。

とはいえ今の時代何かと差別について話題になる中であえて表現するというのはそれは必要な要素であるという強いメッセージのように取れて、壁を感じながらもそこまでの表現をするのだから何かそれ以上に強いメッセージ性のようなものが話の中に含まれているんでしょうね?というようなストレスからくる正義感が壁を乗り越える後押しをしてくれるのです。

謝肉祭を読んで思ったのが、私は犯罪を犯した者はある程度咎められてしかるべきだと思っていて(内容にもよります)あるいは何らかの差別を助長してしまう表現を使ったとしてもそれを教訓に私たちは前に進んでいかなくてはならないのです。前進することに犠牲はつきもので私たちは常にストレスと戦わなくてはいけないし、前時代的なことをしなくてはいけないし、それらの不都合や不条理を糧にして踊らなくてはいけないのです。

そういう日々の生活の中で瞬間的に起きる矛盾というか人生にも似たジェットコースターのような波を感じながら色々な謝肉祭を聴きながら謝肉祭を読んでみました。壁はやっぱり壁ですがフラットになっていました。それだけ私たちは波の中で生きているということなのです。