漫画・本レビュー

21 Lessons review

21 Lessons

21 Lessons を読みたいけれども、読むのが面倒という方に向けて21のテーマから面白い話を簡単に紹介しようと思います。

第2章 移民  文化にも良し悪しがあるかもしれない

 

グローバル化のおかげで世界中の文化の差が縮小したが、同時に、外国人と出会って彼らの風変わりなところに度を失うこともずっと多くなった。

移民

多種多様な文化それぞれの宗教観念を統合できないように、移民の良し悪しを決定することはできません。
それでも、日本のように国が回らなくなるほどの致命的な人口減少が起こる国は移民を頼るしかないのです。頼るしかないというのは他に選択肢がないという意味ではなく、移民の可能性を信じているからです。
日本や海外のニュースを見て本当に信頼できるのか疑問に思う方もいるでしょう。最近の例を挙げますと
韓国外交部、対日外交強化予算12億ウォン→51億ウォン…日本現地で世論戦

韓国の南官杓(ナム・グァンピョ)駐日大使は韓日記者交流プログラムで東京を訪れた韓国の記者団と懇談し、このところ両国間の雰囲気が大きく変わったとしながらも、日本国内の嫌韓・反韓世論が最大の問題だと指摘し、この問題の解決に力を入れる方針を明らかにしました。南氏は反韓感情の解消に向け、来年の外交部予算を対日広報外交に重点配分したと説明。「日本社会に全方位的にくい込む必要がある」とし、まず日本の世論を主導する財界やマスコミなどを攻略する計画だと述べました。

このようなニュースがありました。
要するに日本のメディアや活動家に金を払って韓国の良い部分の報道を極端に強めたり、悪い部分の報道を極端に控えたりなど、そのような印象操作・プロパガンダを積極的に行うことを示唆しているのです。このニュースと移民の問題を同列の問題として扱うのは間違っているかもしれませんが、文化にも良し悪しがあるという観点から見たときに本当に良し悪しがあるかもしれないと思うのは私だけでしょうか。

他国にきて自国の文化や考え方や、ましてやメディアを操作するというのは信頼や友好を度外視した行いそのもので、私のような考えを持っている人と、操作をする人のギャップをどう埋め合わせするのだろうと甚だ疑問で仕方がありません。

 

ギャップの埋め合わせ

移民の問題はどちらも相手の言い分に耳を貸さない怒鳴り合いに落ちてしまうことが多いので、論点を明確にするのは移民を3つの基本的な条件を伴う取り決めとみなすといいかもしれないとこの本は言っています。
条件1 受け容れ国は移民を入国させる
条件2 移民はその見返りとして、たとえ自分の伝統的な規範(判断・評価・行為などの、拠(よ)るべき規則・規準)
や価値観の一部を捨てることになっても、受け容れ国の少なくとも基本的規範と価値観だけは採用する。

 

条件3 移民は十分同化したらやがて受け容れ国の対等で歴とした成員となる。

例に挙げた問題も移民の問題も、他国の文化に深く関わる以上、フェアーであるべきだと思うのです。移民という立場を逆手に取り、要求を強めたりその国の規範や価値観から逸脱した行いをしたり、そういったことのどこから信頼や友好という類の感情が芽生えるのでしょうか。移民を否定したり、あるいは敬意を抱けとは言えませんが(外国人実習生問題など受け容れ先の問題もあるため)受け容れることを受け容れて欲しいと言いますか、受け容れ先にも受け容れ先の文化があるという認識を持って欲しいものです。

 

終わりに

これからますます移民の方の数が増えていく中で、もう少し具体的な規範を明確にしたほうがいい気がします。特に倫理観ですとか道徳的価値観は国や宗教によって様々ですので、法律以外のところにも目を向けていただきたいです。それは差別ではなく対等でありたい、信頼したいという願いからそのように思うところなのです。

 

 

追記

第2章 コミュニティ  人間には身体がある

 

カリフォルニア州の人々は地震には慣れているが2016年の選挙の政治的な激震は、シリコンバレーの不意を衝き、猛烈な衝撃を与えた。

 

 

フェイスブック

Facebookは、ディープフェイクのコンテンツやオンラインの誤報キャンペーンに反対して、サイトから多くの種類の誤解を招く動画を禁止していると発表しました。2016年の事件がありますので一歩引いて見てしまうのかもしれませんが、正直ディープフェイクのクオリティは年々高くなっています。どれだけ高くなっているかと言いますと、Facebookがデープフェイクを検出する技術者を募るくらいです。

何が恐ろしいのかと言いますと、印象操作やプロパガンダに利用されるのが恐ろしいです。
例によっては国が印象操作やプロパガンダに多額の資金を投入するというケースもありますし、また、ヘイトやデモによるコミュニティー破壊なども当然想定されます。そう考えたときにFacebookの検出のジャッジは信頼できるのでしょうか。そういう意味では、SNSあるいはネットとの付き合い方を考える過度期に差し掛かっていると言えるのではないでしょうか。

 

オンラインオフライン

Facebookには20億人を超えるオンラインアクティブユーザーがいます。コミュニティはオンラインで始まってもいいですが、オフラインの世界にも根を張らなければなりません。
もし独裁者がネットを破壊してネットへの出入りを封じた時に、反撃をしたりデモを組織できるでしょうか。オンラインのコミュニティはオフラインのコミュニティを育むとFacebookは言いますけれども、ツイッターやインスタグラムを見ていると疑問に思ってしまいます。果たしてオンラインのコミュニティはそこまで崇高なものなのでしょうか。個人的には、あくまでも印象操作やプロパガンダを行うツールであって、そのツールが失われてしまえばただのコミュティにしかならないと思うところであります。

あるいは単純すぎると思われるかもしれませんが、それはFacebookが一番理解していることでしょう。つまり、オンラインのコミュニティはオフラインのコミュニティを育むというのは、Facebookが印象操作やプロパガンダに加担すればするほどオフラインのコミュニティが強固になっていくのと同義であると言えるのではないでしょうか。そう考えた時にディープフェイクほどの、オフラインコミュニティ強化ツールはないと思うのです。SNSをそこまで疑ったり悪者扱いする必要はないのですが、自分のコミュニティを守るという意識は今後ますます強く持った方がいいかもしれません。

 

 

さらに追記

第4章 ポスト・トゥルース  いつまでも消えないフェイクニュースもある

 

人間は常にポスト・トゥルース(世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会)の時代に生きてきた。我々の種はポスト・トゥルースそのもので、虚構を作り出しそれを信じることにかかっている。

私たちは常にフェイクニュースに晒されています。SNSの情報しかり、ニュースしかり、噂しかり。情報の真偽をジャッジするのは私は荷が重すぎると感じるのです。思考停止のような考え方ではなく、実際判断がつかないニュースをいくつもみてきましたから、情報に踊らされないように一歩引いて静観することはある意味自然でしょう。踊らされても構わない、踊りたい、という考え方であれば静観する必要は勿論ないのですが生き辛さを感じてしまうのは私だけでしょうか。

ですが、自分の正義が許さないニュースはたくさんあります。静観など到底できないようなニュースです。私たちは、そんなニュースとどう向き合ったらいいのでしょうか。SNSに発信するのでしょうか、個人を責め立てるのでしょうか、静観するのでしょうか。内容によってはそれは正しい場合もあるでしょうが、自分の正義とは真逆の考え方を持つ人の発言や情報を分析したり、反対意見に耳を傾けたり、することをオススメします。そうすることで違和感が浮き彫りになったり、胡散臭さを感じとれたりするからです。例えば、「自分の入っている宗教が正義だ」「自分の入っている宗教を否定するのか?」と発言したり考えている時ほど、それ以外の考え方に目を向けることは難しいです。それだけ強い信仰心があるからです。それと一緒で、何が悪いのかすらわからないままにフェイクニュースを生み出す化け物の操り人形と成り下がってしまうリスクがフェイクニュースには含まれているのです(語弊があるかもしれませんが決して宗教を否定しているわけではありません)

 

 

100か0かで判断しない

 

100か0かでジャッジすることほど個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況はありません。勿論それが事実なら問題ない場合もありますが、審判の能力が低いものほど誤ったジャッジを平気で下してきます。それがものすごい影響を持ったということを皆さんも1度は経験したことがあるのではないでしょうか。つまるところ、私たちはニュースの専門家でもなければ、コメンテーターでも法律家でもありません。だからといって全てのニュースや出来事を受け入れる必要もありません。問題はいかに中立(ドライ)になれるかです。中立イコール静観で、否定も肯定もしないというのはあながち間違いではありません。ですから、その分人の話を聞いたり、分析したり、評価をする必要があるということです。なんらかの発言を求められた場合はなおさらですよね。ただ、リアルの発言には柔軟性が求められる場合が多いですので100か0かで判断をしないといけないケースも出てきます。ですので、過ちは恐れず何事にも事実を軽視しない意識を持ちたいものです。それは悪魔の証明のようなものではなく、客観視をすることのように私は思えます。

 

終わりに

言うのは簡単ですが、私もなるべくそういう認識を持って記事を書きたいものです。持続するとなると大変難しいのですが・・・・・・

21 Lessonsを読むと本当に心に刺さる言葉ばかりで、改めて反省しないといけないなと考えさせられますね。多分紹介するたびに反省をすることになるのだと思います。自分の考え方に矛盾が生じるのはよくあって、環境によっても変わります。それでも私はあくまでも”評価をする”という方針で今後も記事を書き続けたいと思います。